昭和42年03月10日 月次祭



 お言葉の中に今中(いまなか)と言う言葉をお使いなっておられます。今中いつも今が真ん中だと言う訳でございます。只今委員長からお話があっとりましたように、御造営も愈々最後の段階、愈々18日には奉祭式が合楽のお広前で行われる事になります。その合楽の奉祭式。合楽に移転をさして頂きますのに先立ちまして、私の検定試験の決定を本部から教務所を通じて、ご通知を今日受けさして頂いた訳でございます。
 思うてみますと十六年の間本当にその事の為に、皆さんが一生懸命になられて一生懸命の様々な手段を講じておい出られたのでございますけれども、この事ばかりはどうにもならなかった事で御座いました事が、ここに試験も合格発表と同時に教師のお資格を、今度受ける事になるので御座いますから、教祖のこのお願いと言うものを、又福島さんがこのご通知を頂かれたと同時から、今書類の作成にかかっておられます。
 言うならば、今日の為にこの十六年があったと言うても、実を言うたら、過言ではないのでございます。お神様が、ああした見事なお広前を、例えばこれが、一年前でもいけなかった。五年前でもいけなかった。いや、十何年も前から、もうこのことは、もう一生懸命に、御本部に通われて、皆さんが、どうでもお教会にして欲しい。先生を教師として、お取り立て頂ける方法はないものかと。
 と言う事で苦心をされたのでございますけれども、それがどうにも、そこに差し支えがあり、ここに都合が悪いと言うようなことで、今日まで出来なかったことが、出来た訳でございます。言うならば、今日の為にこのことがある。こういう様々な修行があったということになるのでございますけれども。教祖の神様のお言葉、今中(いまなか)ということを思いますとです。どういうことになるのでしょうか。
 皆さん、思うてみて下さい。本当に親先生、おめでとうございます。と言うて皆さん、ご祝辞を受けます。それで、私も皆さんおめでとうございます、と言う訳です。私は、めでたいのではない。皆んながめでたいのである。同時に神と人との願いが、ここに成就する。私の試験に参りました翌日の朝、一緒に行っておりました総代さんが、久富繁男さんが、朝、お夢を頂かれておられる。そ
 のお夢が、ふたつの大きな御櫃にですね、麦ご飯が、ぽっぽぽっぽしよるとをこう、おちってあるところを頂いた。先生、今朝からこういうようなお知らせを頂いたんですけれども、どういうことでしょうかと。私はそのことを、すぐ神様にお届けさせて頂きましたら、神様からね、「神と氏子がままになることぞ」と言うことを頂きました。「神と氏子とがままになることぞ」と。
 ただ、今度、教師のお取り立てを頂くのだなという風に、私は感じたんです。ですからこれは、私がままになるのじゃないのです。神様だけがままになる訳でもないのです。神様と氏子とが、一緒にままになるという。これが、御道本来のおかげの現れ方なのです。神と氏子とが、一緒におかげを頂いていこうという。ところがその、通念的な考え方、神信心しておかげを受けるという事は、そら神様から貰うばっかり。
 いや悲しい時の神頼み、それが信心かのように思われてる向きがございますけれども、御道の信心は、それじゃないのです。氏子あっての神、神あっての氏子と。神様は私共に言うて下さるから、もし私共が言葉をもってするならばです。神あっての氏子、氏子あっての神ということになるのじゃないでしょうか。神様あって、私共なのですと。いやいや、お前達あって神なんだ。
 いかに神様というて、私がここに神様、おれが天地の親神ぞと言うたところで、それを親とも思わん、神とも思わんと言うたら成り立たん。どこまでもがお道の信心なんだ。ですから、神様は「氏子あっての神だ」とこうおっしゃっておられるのですから。私共は、いいえ、神様あっての私共である。そこに、あいよかけよ。とにかく、あいよかけよで立ち行くところの道。
 ですから、あいよかけよのその相方の方が喜びであり、相方が助かっていかなけれぱならない。そういうおかげを頂きたい。私が、教師の試験が、まぁおかげを頂いてから、教師の拝命を致します。それは、私がおかげを受けたということではなくてです、ただ、それだけには留まらずにです。これからは、私が、教師のおかげを頂いたということによって、ここに神様の願いである。
 悲願でもあるところの、世の中の難儀な問題が、おかげに導かれていく。難儀な氏子が、取り次ぎ助けられていくという働きが、いよいよ、なされて、いかなければならん訳でございます。そういう意味で、私はこの、今中と言う言葉が、素晴らしい言葉だなと言うことが分かります。今日の為に、この十六年間の修行があったんだ。確かにそうなのだ。けれども、今中という言葉を使いますとです。
 これから、神様の願いが成就することの為に、神様の願いが、いよいよ、叶えられることの為に、今日があるんだと言う事なんです。これだけの為に、今日があるのですから、ここでは夢うかうかは出来ないということになるのではないでしょうか。お互いがおかげを頂いた。おかげを頂いたと、こう調子に乗らんで済む、私はおかげ。いつ、どのような場合であっても、今中であるということ。
 今日の為に、今日の為に、これまでの修行があったんだと。今までの苦労が、修行が、報われたのだと、普通では申しますですね。皆さんの一生懸命の信心がです、今日の為にあったんだと。ここにそれが報われられたんだと。それだけであったらですね。私は、こんな素晴らしいことになって来ないと思うです。それであったらですね。もっと五年前が十年前かに、あっておったと思うんです。
 ところが、そこにはですね、神様の願いも成就するというものが、ひとつになっておったからこそ、十六年間という間もお互いの修行があったんだとこう思う。合楽の御造営のご建設が、段々、始められてから、ここ二年にもなろうとしております。その二年と言う間、こうして、段々、過ごして頂いております。もうここに、いわゆる、日にちの間題、言わぱ時間の問題と言うところまで、おかげを頂いて参りました。
 そこにです。私の検定試験の合格発表、と言う通知を今日、十日というお日柄にです、受けさして頂いたということは、ただ私共がおかげ頂いて良かったと、手放しで喜んでぱっかりはおれないということ。これからこれから神様の願いが成就することの為に、私共は精進を惜しんではならないという気がするのでございます。今朝からのご理解の中に、祈りの中には、願いがありお詫びがあり又は、お礼がある。
 お礼、お詫び、願い、その三つのものが、祈りの内容になっておるんですね、金光様のご信心は。皆さんの祈りの内容もそうでしょう。ただお願いします。お願いします。それだけ言いよったのは、信心の初めの頃。段々、お話を頂けば頂くほどです、日々おかげを蒙っておるということがです。本当にこのような広大なおかげを受けておるということもです。手が動いておるということも。
 目が見えておるということも、こうしてお参りさして頂いとるということも、あなたのおかげなしには出来ないのだということが分かって参りますから。この広大無辺のおかげに対して、心から厚うお礼を申して上げるのである。こういう広大なおかげを頂いておりますにも関わりませず、私は一向に代わり映えがしない。信心は、言うなら、改まりが第一ぞ、本心の玉を研くものぞと教え下さるのに。
 大して、研く美しさなかならければ、改まるところも美しさもない。いやそれどころか、振り返ってみると、お粗末ご無礼の多い事に気がつかして頂いてですたい。心からそのことをお詫びをさして頂くということ。というような事が皆さん、世の中にございます。もう本当に、ああして申します。お礼とお詫びばっかりしよります。いかにお礼とお詫びばっかりしよりますと言うてもです。
 それはお願いせんでもおかげ下さっておってもです。そのお礼とお詫びを神様にお聞き届けに頂けてないとするならば、それは言いよるばっかりと言う事。そうで御座いましょ。お詫びをさして頂くならお詫びさして頂く。お礼を申し上げるならお礼を申しさせて頂くでです。お礼を申し上げさして頂いたら神様が喜んでそのお礼を受けて下さったという所のおかげを頂かなければならんから、お礼を申し上げさせて頂いた。
 そのお礼がお聞き届け頂けるところの願いをなさらなければいけないと言う事です。この願いというものは詫びにも礼にも、だからあるんだということです。例えば今日は、思い切って、特級酒ば一本、お礼のしるしにお供えをしたんですよ。例えば。ところが神様が知らん顔しござる。受けてござったという実感が流れてこない。特級酒のお供えをさせて頂きゃ、もうお礼が済んだというのではなくてです。
 そのお礼の心というものを、神様が受け取って下さった、受け取って下さいという願いが、信心がいるのです。お詫びでも同じことです。どうもすみませんでした。例えぱ、知らん顔しとるなら、まだ詫びは叶うてないのです、そうでしょう。心からお詫びさして頂いて、神様がこちらを向いて下さって。今度だけは、許してやろうとこう、神様がそのお詫びを聞き届けて下さるところの願いというものが要るんです。
 お詫びしとるけん良かろうじゃなくて。だから、お詫びばっかりしよります、お礼ばっかり言いよりますと言うたっちゃ、そのお詫びやらお礼やらが、聞き届けられていないから、おかげにならんのです。お詫びが行き届けばおかげになるのです、御道の信心は。お詫びが聞き届けられりゃ、おかげになるのです。これは願いを聞き届けて下さった時と同じなんです。
 そこにお互いの、信心の工夫がなされていかなければいけないと、私は思うです。天地の親神様、お分かりになるでしょう。もう何十年も前の私ども、子供の時分に、これは、聞いておるお話しですから。けれどもやっぱり忘れません。今、ここの楽長の父親になります。田中増太郎と言いよります。ある時に近所から、お百姓をしとりませんから。近所のお百姓さんから、見事な大根を頂いたんです。
 はぁこりゃ見事、早う善導寺に持ってお参りしろと。叔母でも、それをその、そんならと言うてから、そのまま頂いた大根を綺麗に洗うてから、善導寺にお供えさせて頂いた。持って行った。あまりに見事だったんですね、その大根が。初代が、まだ在中ですから、すぐ、お取り次ぎ願わせて頂いたら、先生が、すぐそれをお三宝に載せて、神様へお供えなさったんです。
 そしたら先生が、御結界に下がって見えてから、田中さん、今日の大根な、こりゃ真心が籠っとったじゃろ。今日の大根はな、神様が七代で受けて下さったよ、と仰った。大きな大根。それは何本であったかは知りませんけれども、今日の大根は、田中さん、神様が七代として受け取って下さった、と仰ったということです。例えば、そんなら、百万のお金をお供えさして頂いてもです。
 神様がそれを喜んで受けて下さらないとするならば、それは言うならば神様が知ってあるじゃろうほうけのごとしてござるという事になる。不浄があっちゃならん一生懸命の恩いが真心がです、もうそれこそ射る様な思いが善導寺へ善導寺へ。叔父も思うたこりゃ見事とこりゃもうお供え。さあお母さんはよ善導寺に持ってお供えして来い。とさぁそんなら私が持って、ちょっとお供えしてこうかと言うそれなんです。
 これが言うならば、お礼を受けて下さったと言うことになるのじゃないですか。しかもそれを、七代のおかげを下さったという。私共のお詫び、私共のお礼というものが、果たして神様が聞き届けておって下さるであろうか。どうぞ、お聞き届け下されいという、その願いをなさらなけれぱならないということ。身に徳を受ければ心配はない。身に徳のない間は心配をする。身に徳を受ければ心配はない。
 お徳は、信心をすれば誰でも受けることが出来ると。みてるということがないとも仰せられる。みてることのないというお徳。信心をすれぱ誰でも受けられるというおかげ。それがお徳なんです。ところがそんならそのお徳というものを、誰でも受けておるかというと、実はそのお徳というものは、みんなが受けていないということ。誰でも受けられると仰るのに、どうして受けられんのだろうか。
 そこで、只今、私が申しましたような信心。そういう信心になっていないから、お徳が受けられないのだという事。今まで通念として考えておって、信心とは神様とはこちら、無理をお願いするもの、悲しい時に一生懸命に願うもの。いよいよの時には、それこそ一生懸命じだんだ踏むようにして修行でもさせて頂いた様な願いをすれば、おかげになると思うておる。それを信心だと思うておる訳ではなかろうけども。
 そこの域から一歩も出ていないという信心であったんでは、一生かかって、信心さして頂いても、お徳は受けられない。だからそれでは御道でいうところの信心ではないということ。御道の信心というのは、どこまでもです。「神と氏子とがままになるのぞ」と仰る。私が、おかげを受けたという事がです、神様の喜びに繋がる。神様のお働きに、神様の願いに、それが通うていくという信心。
 そういう信心を目指さして頂く時にです。お互いが誰しもがおかげを受けられるということになるのではないでしょうか。私共が一つの事が成就致しますと、全てがおかげを頂いたというだけで留まってしまう。どんなおかげを頂いた時でも、今中という気持ちを忘れなかったら、信心に揺るぎが来ない。今中ということを忘れてはならない、信心させて頂く者は。いつも今中。今日の為に、今日の為に。
 私共、十六年間の信心があったんだ。修行があったんだということは、それは決して、嘘ではないけれども。神様の願いからすればです、なぜ十六年もかかったか。かからなければならない理由があった。神の願いというものが、あの合楽の現場に御成就なっていきよる。その願いと、私共の願いが一緒に、タイミングよう、一緒になるところのおかげを下さることの為に。今日までの、いわば、御造営も二年間という長い年月を、必要であった訳なんである。
 もう後何日後の御造営を控えておる今日、教師試験合格のお通知を受けさして頂いた。直ぐ近い将来にですね。実を言うたら六月の十日には輔命式があるはずでございます。拝命する訳ですね。そこのところを思わして頂く時に、これはこれからの神様の願いというものが成就していくことの為に。日の為に今までの修行があっただとするならばです。これからの為に、私共の信心がなされていくというような信心からです。
 私はお徳を受けていけれるというおかげが頂かれるのじゃなかろうか。皆さんなんというてもね、信心させて頂いたら、お徳を目指さなけれぱ駄目です。お徳を目指さした信心、それには、どういう信心させて頂いたら良いかということを、何時も申し上げます訳でございますけれども。今日はそれを、今中という言葉をもって、皆さんに聞いて頂きましたですね。
   どうぞ。